★臨時連続共育セミナー
「未曾有の大災害 あなたは何ができますか?」
― 東日本大震災の被災地からの緊急報告 ―
2011年4月14日(木)17:00〜19:00に行われた臨時連続共育セミナーの内容(概要)をお伝えします。
お話:北島次郎さん(大和市役所市民経済部市民活動課 課長)
内容
3月11日の東日本大震災に際して、大和市の支援団として現地におもむき、支援物資の引渡し、そばやうどんの炊き出し、救援物資の仕分け作業などをとおして被災地で視えたものを伝えます。
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今回、 大和市 は災害派遣として 10 人が支援団を組み、 岩手県陸前高田市 に救援物資搬送と炊き出しに行かせていただきました。大和市 では「とれたて大和」というアンテナショップを大和駅前に出していて、 陸前高田市 とはそちらに商品を提供していただいているという関係があります。大木市長 が 陸前高田市 の戸羽太市長と連絡を取り、タオルなどが不足しているということから日用品を届けに、また当初は医師が不足しているということでしたので、 大和市 立病院から医師 1 名、看護師 2 名が行きました。
陸前高田市 は人口 23,000 人、面積は 230k u、被災された方は 3 月 28 日現在では死者 975 人、行方不明者 1304 人、被災者は 13408 人でした。 陸前高田市 の職員の方は 270 〜 280 名のうち、 70 〜 80 名が行方不明、あるいは死亡されたということでした。
(行程)
行程は 3 月 22 日〜 26 日の 4 泊 5 日でした。 22 日 18 : 00 に 大和市 役所を出発し、 23 日 1 : 00 に東北自動車道長者原サービスエリアに着いて仮眠を取り、 8 : 30 に陸前高田市の災害対策本部になっている学校給食センターに到着しました。自然環境センター(市内にあった県立高田病院が流されてしまったために、ここが仮の病院として陸前高田市の医療機関の中枢となっていた)を経て市立広田小学校に派遣されて 10 : 30 から物資の搬入、炊き出し、医療活動を行いました。 19 : 00 頃に医療活動・炊き出しを終了し、約 30km 離れた 一関市 の山あいにある大原公民館で宿泊しました。
24 日は前日と同じく広田小学校で炊き出しと医療活動を行い、鳥羽市長と挨拶をしました。医療は、この日の午後は広田小学校の周りの避難所、各家庭で避難している人を訪れる訪問診療を行いました。電気が止まっているために機械のベッドも動かなくなり、褥 瘡の治療をしてきたと聞いています。 25 日午後はまた別の横田小学校へ行って救援物資の仕分け作業をしました。 26 日は 7 : 30 に 陸前高田市 を出発して 17 : 30 に 大和市 役所に到着しました。走行距離は約 1300km でした。
一関から 343 号線を下りてきて最初の風景は、全てが瓦礫になっていました。最初に自衛隊の方が瓦礫を撤去してくださったので道がありましたが、私たちが行ったのは開通して本当にすぐというときでした。
(炊き出し支援)
・そば・うどんを 2 日間で 850 食( 150 食は避難所にお渡ししました)
・フライドポテト・フランクフルト(主に子どもを対象)
(搬送物資)
・紙おむつ(大人、子ども用計約 1600 枚)
・生理用品(約 6000 個)
・ブルーシート(約 100 枚)
・毛布( 60 枚)
・トイレットペーパー( 1000 個)
・タオル( 1000 枚)
・歯ブラシ( 900 個)、歯磨き粉( 240 個)
・自転車 2 台
・その他、医薬品約 85 万円分、職員持ち寄りのタオルや石鹸、マスクなど
炊き出しで温かいものを食べていただきたいということでおそばとうどんを 500 食ずつ持っていきました。うどんでは乾燥わかめをお湯にもどしたものや、揚げ玉、ねぎをセルフサービスで入れてもらうようにしましたが、「わかめの産地なんだけどよ」と言いながら入れていらっしゃる姿に胸が詰まる思いでした。おいしいかどうか聞くと「あんたらの気持ちがおいしい」ということでした。油ものが全然ないので、その場でじゃがいもを揚げたフライドポテトなどは子どもたちだけでなく大人にも大変喜ばれました。同時に歯ブラシやタオルなどは手渡ししました。
支援物資を 2t トラックで持っていきましたが、物資は「じゃあそこに置いといてください」という状況なのです。歯ブラシやタオルを一つ一つお渡しして「ありがとう」と言いながら貰っていただいたことが非常に印象に残っています。ですからやはり人が行って何かをしてあげるということがとても大事なことだと思いました。
(医療支援について)
医療については、市内が 4 から 5 つのセクションに分けられていて、秋田大学やその他の大学の病院、沖縄の病院も来ていて、それぞれがどこの地域を受け持つというようになっていました。大和市が行ったのは早い時期だったのでスポットで入ることもまだ歓迎されていましたが、これからは継続して支援をしていくことが必要ですので、例えば神奈川県が一つ受け持ちそこにいろいろな神奈川県の病院が行くという方法にしないと難しいと思います。
(支援物資について)
支援物資はできるだけ分けて送ることが大切です。支援物資がダンボールで積みあがっていて「どこの避難所から何が何枚、何が何枚」と要望が来ますが、それを探し出すのに大変な騒ぎになります。現地で仕分けをすることはまず無理です。物資を送るときには男女別、サイズ別に分けて、1つのダンボールには1種類にして、何が入っているかわかるようにすることです。
(その他)
・テントを張るときにはみなさんで手伝ってくださいました。協力体制ができていました。
・炊き出しをするのに水道がないので山へ行って汲んできてくれました。
・避難している方たちも遺体の捜索に参加していました。
・宿泊地は山の上なので被害は全くありませんでした。毛布だけで寝ました。食事は持っていった乾燥米などです。
・プロパンガスの地域だったので、幸いにライフラインとしてはプロパンガスを持ってくれば使えました。
・出発した 22 日は大和市は雨、東北自動車道を下りると雪景色で、帰りも雪でした。
・トラックとバスで行ったので軽油を 600 リットル積んでいきましたが、サービスステーションのガソリンスタンドが営業していたので常に給油をしながら行き、 500 リットルを災害対策本部に寄付しました。瓦礫を除去するブルトーザーなどは軽油車両ですから、軽油がなくて非常に困っているということでした。
(終わりに)
避難をしている方は本当に秩序正しく、誰も文句を言いません。小学校でテントを張って炊き出しをしましたが、いつもは、学校の中の家庭科室があってそこで婦人会の方が集まって食事の支度をしています。婦人会の人で、自分は食べなくていいからと、 50 世帯くらいの方がいる別の避難所の人たちに食べさせてあげたいとのことで一生懸命に小さい鍋につゆを入れて、 1 個 1 個の麺を湯がいてお椀に入れて出前をしました。地域がこのようにまとまっているので今後も乗り切っていけると感じました。
炊き出しでは「ああ、あったか〜い」と仰って、手作りの温かいものが非常に喜ばれました。自分がやっていて一番感動したのは「ありがとう」という言葉でした。今までの一生の中で、一生分くらいの「ありがとう」でした。帰るときもみんなが出てきて手を振ってくれて「ありがとう」と言われて、やはり物が届くよりもそこに人が行って「みんなが心配してるんだ」という心が伝わるのだと感じました。それが一人一人に伝わること、人が繋がっていることを伝えられたことが今回非常に良かったと思いました。
泥や廃材の撤去の他に住宅支援が必要になりつつありましたが、仮設住宅を建てていますが陸地が少ないこと、津波にのまれなかった部分は非常に斜面のきついところであり、また漁業や水産で生計を立てている人はあまり高台でも困るという問題もあります。
私たちが今後継続的な支援を続けるためには、資金の確保も考える必要があります。
(大和市で活動するNPO 法人 WE21 ジャパン大和 も被災地へ支援に行きました。大上さんからお話をうかがいました。)
私たちは市民の方から無償でご提供いただいた衣類や雑貨をボランティアの手で販売して収益を支援活動にまわす活動をしております。それと同じような団体がいわき市にもあり、日頃からお付き合いをしていた関係で「ぜひ状況を知ってもらいたい」と連絡がありました。たまたま天ぷら油で走る車というのを借りられることになり、野菜が足りないという情報だったので大和市内の有機農業をやっていらっしゃるグループから無償でご提供いただいたり、瀬谷養護の近くの農家に飛び込みでお話しに行ったら本当に格安で分けていただいたりして、持てるだけの野菜を積んで 15 人で運びました。
救援物資はもっと北の方が第一優先という認識があり、私たちが行った 4 月 10 日にはいわき市には物もあまり入っていない、いろんな支援の手が入っていないという状況で、自衛隊が遺体捜索をしていました。日帰りだったのであまり行けなかったのですが、避難所を3か所、学校を2か所、自治会の集会室のようなところを1か所回りました。集会室と言っても本当に狭いのですが、最初はそこにお年寄りが 100 人避難していたそうです。だんだん親戚宅などに移っていき、その時は 40 数名の方がいらっしゃいました。最初の頃はここは全く物資が来ない状況で、津波の被害がない地域だったので近所の方が持ち寄ってなんとかしのいだということでした。
いわき市 は東京 23 区の 2 倍の面積に人口が 34 万人だそうです。ですから「物資がどこそこにあります」と言われて飛んで行くにしても、神奈川県では想像ができないくらい遠いところだったりします。 5 市が合併してできた市ということなので、海沿いの「浜通り」や「中通り」と、会津などでは温度差がかなりあるということで、いわき一丸となって復興しましょうというふうにはなかなからならないというのが現状ということでした。
私たちと連携している団体が今はそれぞれの避難場所に行って「ここにはこういうものが足りない」と物資の御用聞きをしているということでした。必要な物資は日々変化していて、最初の頃に必要だったものとはまた違ってきているそうです。物資が一つに集まるところがあってそこでカーペットがあるのを発見し、避難所が寒いだろうからとお届けしようとした時、もうそこには一つ一つ「○○家」「○○家」と、小さなスペースだけどそこが自分の陣地となっていますから、それをまたどかしてここにカーペットを敷きましょうということはもう無理だったそうです。被災してまだ 2 〜 3 日という時はこのカーペットは役に立ったわけですから、どこにこれを持っていくと一番役立つというコーディネートが一番大事だと思いました。
私たちは自分の思いが先に立って炊き出しに行くのですが、自立して普通の生活に戻していかなきゃいけないという気力を、炊き出しをするということで殺いでしまうという悪影響もこの頃には出てきていると伺いました。そして、避難している方はなかなか心を開いて「あれがほしい、これがほしい」とは言ってくださいません。「こういうのどうですか」と聞くと「そうだね」という感じだと思うんです。心を開いて顔の見える関係になってやっと「そろそろ唐揚げが食べたいから唐揚げ粉がほしい」、「靴がないから何 cm の靴が欲しい」とだんだん言ってくださるようになったと、現地の方でもそう仰っていました。これからは本当に長期で私たちもお付き合いをしていかなければいけないと思いました。
いわき市は特に、地震、津波、火事(火事は数件だったそうですけれどもそれだって大変なものです)、その後が原発、その後に風評被害が起きました。風評については、水素爆発が起きたときに消防が「屋外に出ないでください」と回り、それを聞いた市民が「外に出られないくらいひどいんだ」ということで県外やいろんなところに避難して行った、そして避難先で「福島には戻れない、福島はこうなんだ」ということからいわき市民自身も風評の原因になっているということも自戒を込めて仰っていました。私たちが行ったのが 4 月 10 日ですが、たまたま私たちは常磐自動車道を通って行けるところまで行ってそこから一般道に下りましたが、 11 日にまた大きな地震があり、常磐自動車道も今は不通になっていますし、水も何か所か自衛隊の給水車が来ていて、その水さえも、出ていた水もまただめになってしまった、そして余震が続くので精神的にも厳しい状態であるとメールが来ています。ただ、今回は大和と神奈川のメンバーで行きましたが、大和市役所の北島さんのお話と本当に同じで、「神奈川に自分たちのことを思ってくれている人がいるんだということが支えで、とっても本当に嬉しい」という言葉をいただきました。まとまっていませんが、このような状況でした。